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働き方改革の制度設計を、経営の現場から冷静に考えてみる
2018/05/04
最近偶然にも、数人の経営者から同じような声を聞いた。それも規模も年代も様々な人から。
「政府肝いりで進めている働き方改革は、一昔前のゆとり教育のような末路にならないか心配だ。これからの人口減少社会の課題と経営現場の現実を適切に踏まえて制度設計しないと、ほぼ全ての企業において働き方改革は失敗する。」という嘆きの声が大筋である。
そこで、働き方改革について、経営の現場から少し冷静に考えてみたいと思う。
最近特に言われている「①生産性の向上+②労働時間の短縮+③兼業副業の推奨」を同時推進して、かつ会社の営業利益率を上げることを志向したとする。
※特に②と③を推し進めると①に繋がるのかを考える。
スキルセットの極めて高い人材の場合(スキル面以外でも、若い、アントレプレナーシップに溢れる、メンタルが強い、行動力があるなどの特性を兼ね備えている有能な人材の場合)、
・兼業副業で新しいアイデアや人脈や経験を得られる可能性が広がり、
・自由度の高い新たな働き方による新たな発想と経験がイノベーションを喚起したりし、
・従来型の労働慣習では獲得できなかったアイデアや手法によって本業での労働生産性も向上し、
・長時間残業が解消され労働時間の短縮が起こり、
・それによって会社の営業利益率が上がる、
という良いスパイラルを生む。という、仮説。
確かに個別事例では、こうしたシナリオは起こり得る。
しかし労働市場全体でみたとき、上記のシナリオを最短距離で達成できる高付加価値人材はものすごく希少で、比較的スキルセットの低かったり成長スピードがゆっくりな人材の方がボリュームゾーンである現実を考えれば、
・勤務時間の短縮によって、従業員個人からみれば手取り収入がこれまでより大幅に減る人が増え、
・自分のやりたいことやキャパを広げるためというより、生活の糧としての金銭目的によって兼業副業が増える可能性が高まり、
・その結果、雇用側の企業から見ると労働時間の短縮が達成されても、労働者個人の「本業+兼業副業」の総労働時間は逆に増える方向に力学が働くという現象が起きる可能性が高い。
よって、マクロ視点での労働生産性の劇的な向上は、この施策によっては起こらない。だとしたら、なんたるパラドックスだろうか。
また、働き方改革で「労働生産性の向上」と「労働市場の流動化」が推進される背景を改めて振り返ると、労働力人口が長期的に見て激減していく中で国力を維持するためには、1人あたりの労働生産性を高め、時代の流れによる産業転換の中で成長産業に優秀な人材を集めなければ日本は〝もたない〟という現実が根底にある。
しかし、マクロ視点での生産性向上のために労働市場の流動化を言うならば、そのために不可欠な解雇規制の緩和や高度プロフェッショナル人材の多様な働き方について真正面から議論すべきであるのに、政府は議論を逃げて封印し、野党は「解雇」という言葉を聞いただけでパフォーマンス的なネガキャンをやる。国会の議論がもっとも経営現場の現実から遠いという不可思議な現象が起きている。
(ちなみに、維新の会は裁量労働制や解雇規制についても、逃げずに議論&検討&提案している。)
さて、国会では過去最大となる予算案が成立したが、予算編成が適正がどうかと言う最もシンプルかつ本来行われるべき議論よりも、野党のパフォーマンス先行、政府の論拠データの杜撰さなどばかりがメディアを通じて国民の目に晒されてしまった。
モリカケ問題、財務省・防衛省の文書管理問題、セクハラパワハラ問題。維新の会以外の野党の審議拒否、総選挙から約半年しか経たずしての新党結成騒ぎ。内外の重要案件への国民の関心が吹っ飛んでしまった。
特に焦点が当たった裁量労働制の拡大については、その最たるものだった。「人が死んでる問題なんだ!許せない!」などと大声で叫ぶような野党党首の寒いパフォーマンスや、裁量労働制を拡大をすると過労死が増えるみたいな論理構成の間違っている感情先行型の暴論は、制度設計を考える場面において、はっきり言って無価値である。というか、害悪である。
「有権者ウケの良い施策A」と「有権者ウケの悪い施策B」があったとして、制度設計的にAとBはセットで実行されて始めて効果が最大化するという政策パッケージは多く存在する。
しかし悲劇なのは、政局的パフォーマンスによってBのみが批判に晒されることで削除され、Aのみが実施されてしまうと、そもそもセットでこそ生きるはずだった政策効果はなくなり、逆に社会や市場に歪みを生じさせる悪い制度になってしまうということはよくある。これこそ悲劇。
政治や行政が主導する働き方改革からではなく、企業努力やAIなどのテクノロジー進化によっては、労働生産性の向上は起こり得る。
あくまで個別の生産性向上(=ミクロ)は企業の仕事であり、政治や行政ができるのは、マーケット変化のスピード感に合わせて成長市場に経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報)が投下されていくことを推進することで、“市場全体”の生産性を上げる(=マクロ)ことである。突き詰めて言えば、変化の激しいマーケットの現実に向き合う企業を邪魔しないように、適切な規制緩和(≒規制のコントロール)を進めることにつきる。
働き方改革について考えれば考えるほど、結局社会の歪みを生じさせているのは政治の責任なのではないかという思いが強くなってしまう。
パフォーマンス政治、政局優先の政治、ポジショントーク政治、建前ばかりの政治、キレイ事政治、現状維持政治は、我々の世代で終わりにすべきであり、今こそ現実に向き合う本音の政治が必要ではないだろうか。
自分もまだまだ勉強不足。いずれにしても、自分の持ち場で全力を尽くして参ります。